長谷川 堯 『神殿か獄舎か』
鈍重で厚い歴史の積層をいつも奇跡として開いたいくつかの、そしてほんのひとにぎりの、美しい神殿建築の実在によって、建築家たちはいまでも、他ならぬ神殿づくりの末裔としての内的な血脈を信じ、その職業への疑惑の刃と非難の矢を、重厚な壁と列柱の陰において、充分な余裕のなかにかわすことができると確信しているのだろうか。そうでないかぎり、すでに形骸となって久しいにもかかわらず、今日依然として私たちのまわりに連綿として登場するその神殿的建築の横溢の理由を説きあかすのは、とても困難だ。