長塚節『土』

 春は空からさうして土から微かに動く。毎日のやうに西から埃を捲いて來る疾風がどうかするとはたと止つて、空際にはふわふわとした綿のやうな白い雲がほつかりと暖かい日光を浴ようとして僅かに立ち騰つたといふやうに、動きもしないで凝然して居ることがある。水に近い濕つた土が暖かい日光を思ふ一杯に吸うて其の勢ひづいた土の微かな刺戟を根に感ぜしめるので、田圃の榛の木の地味な蕾は目に立たぬ間に少づつ延びてひらひらと動き易くなる。其の刺戟から蛙はまだ蟄居の状態に在りながら、稀にはそつちでもこつちでもくくくくと鳴き出すことがある。空から射す日の光はそろそろと熱度を増まして、土はそれを幾でも吸うて止まぬ。土は凡を段々と刺戟して堀の邊には蘆やとだしばや其の他の草が空と相ひ映じてすつきりと其の首を擡げる。軟かさに滿たされた空氣を更に鈍くするやうに、榛の木の花はひらひらと止まず動きながら煤のやうな花粉を撒き散らして居る。蛙は假死の状態から離れて軟かな草の上に手を突いては、驚いたやうな容子をして空を仰いで見みる。さうして彼等は慌てたやうに聲を放つて其の長い睡眠から復活したことを空に向つて告げる。それで遠く聞く時は彼等の騷しい聲は只空にのみ響いて快よげである。

土 (岩波文庫)
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長塚 節
岩波書店
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