中谷宇吉郎『雪』

 雪は人間の生活をおびやかすばかりではない。年毎に激増してゆくスキーを楽しむ人、冬山へ登る人、更に幾度か犠牲を払うことにも屈せず、ヒマラヤに挑戦している西欧の登山家たち、このいずれもの人々がいわば雪と闘い、雪を楽しみ、雪の魅力に引ずられているのであるが、雪の研究を根本的に進めようとする人間の努力の方はこれらにくらべて遥かに微弱であることは争えない。毎年何百万の人間が積雪に苦しめられて憂鬱な生活をしている。雪のために毎年一億万円を超える損害を受けている。こういう事実に対して少数の人々は何とかしなければいけないということを真剣に考えているのである。
 しかし一方では、毎年冬になると何十万という人々が、スキーを楽しむために雪原へ雪の山へ出かけてゆく。これらの人々が雪に親しみ、健康と剛健な気風とを養うことは勿論大いに賛成すべきことではあるが、このように雪に親しむ気持を今一歩進めて、雪の性質なり、雪の降る状態なりに注意し、そして雪から蒙る損害をいくらかでも少くしようということに心を向け、また同時に雪を楽しむようにしたら、どんなに良かろうかという気もする。雪の性質が本当に研究し尽された時、雪は現在のように恐ろしいものとして、われわれに迫らなくなるであろう。これは決して夢のような話ではない。人間はもっともっと困難な多くの自然現象とたたかい、それを研究して、征服しつつあるのに、雪についてまだ多くの研究がされないのは何故であろうか。少数の学者の研究が如何いかに進んでも、その研究が一般の人に普及されなければその真価を発揮したことにはならぬ。また研究というものは多くの人に諒解され、利用されて、人々の注意が集って更に新しい段階に入ることが出来るのである。今日我国において最も緊急なことは、何事をするにも、正しい科学的精神と態度とをもって為すことが必要であるということであろう。これは何回繰返して言っても過ぎることはないであろうと思われる。


雪 (岩波文庫)
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